最高裁判所第三小法廷 平成元年(行ツ)145号 判決 1990年2月06日
京都市山科区大塚北溝町一一番地の一
上告人
ロンシャン株式会社
右代表者代表取締役
脇田周輔
右訴訟代理人弁理士
新実健郎
村田紀子
橋本昭二
大阪市北区豊崎二丁目二番一〇号
被上告人
株式会社アズ
右代表者代表取締役
武村庄蔵
右当事者間の東京高等裁判所平成元年(行ケ)第六四号審決取消請求事件について、同裁判所が平成元年七月二七日言した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人新実健郎、同村田紀子、同橋本昭二の上告理由について
所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らして是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひっきょう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 園部逸夫 裁判官 安岡滿彦 裁判官 坂上壽夫 裁判官 貞家克己)
(平成元年(行ツ)第一四五号 上告人 ロンシャン株式会社)
上告代理人新実健郎、同村田紀子、同橋本昭二の上告理由
上告理由第一点
原判決には、判決に影響を及ぼすこと明らかなる法令違背がある。
(一) 原判決においては、本件商標の称呼「ロンサン」と、引用A、B商標の「ロンシャン」とが、全体としての語感、語調においてかなりの程度異なったものとして称呼され、聴取されるというべきであり、したがって、両者は称呼上相紛れるおそれがないと判断するに際して、第三音である「サ」と「シャ」とは本件審決が指摘するように音質が異なり、音構成上も比較的明確に発音されるものであるから、「サ」と「シャ」の差異がそれぞれの称呼全体に及ぼす影響は少なくないとみるのが相当であり、本件商標における「サ」の音は、引用A、B商標における「シャ」の音とは異なった音感をもって発音され、また聴取されるものといい得ると認定している。
(二) しかしながら、日本語において、「サ」の音は最も「シャ」の音に類似した音である。すなわち、「サ」の音は、子音[s]と母音[a]を結合した音であるに対し、「シャ」の音は、子音[∫]と母音[a]を結合した音であって、両者の相違は、子音部分に存する。処で、[s]の音と[∫]の音は、いずれも、無声歯茎摩擦音(Voiceless alveolar fricative)であって、無声音であること、歯茎音であること、摩擦音であることの三要素において共通し、しかも、[∫]音は[s]音を要素として含み、[s]音と無縁のものではない(したがって、「[∫]の記号は[s]を縦長に伸ばしたものである)から、両者は互いに類似した子音である。音声学的には、[s]音と[∫]音は、後者が硬口蓋音(palatal)と呼ばれるものであるに対し、前者がそうでない点において異なる。しかしながら、その差異は文字通り音声学上のものであり、現実の日本語としては、互いに酷似した子音である。特に、日本語としての[s]音と[∫]音には、英語としての[s]音と[∫]音程の差異はない。なお、研究社発行、市河三喜編「英語学辞典」(参考資料Ⅰ)第二三八頁(15)[s]および(17)[∫]の項参照。
(三) 更に、日本語としての[s]音と[∫]音が、それぞれ同一母音[a]と結合したときその差異は一層少なくなる。すなわち、子音としての[∫]音を単独で発声するときは、舌と門歯との間に小さい空洞を作り共鳴室を完成するために、唇を左右から狭め上下に開くようにするが(ただし日本語では英語におけるように[∫]音が単独で発声されることはない)、後続する母音の[a]と結合するときは、唇の動きにおいては、「シャ」の音は「サ」の音と実質的に変わる処はなく(「シャ」の音を発声するために唇が左右から狭められ、かつ上下に開くことはない)、わずかに舌尖または舌端の前歯の歯茎に対する関係部位が異なるだけで、両者は極めて類似した調音のものである。このことは、音声学的な解明よりも、称呼実験をすれば容易に理解できる処である。
(四) このように「サ」音と「シャ」音は類似音であるため、現実に日本語において「サ」音と「シャ」音は互いに混用される。例えば「鮭」は「サケ」とも「シャケ」とも発音される。例えば、株式会社博文館発行小柳司気太著「新修漢和大字典」(参考資料Ⅱ)第一九八九頁第四欄「さけ 鮭」の項および同第一九九七頁第三欄「しゃけ 鮭」の項参照。その他、方言および幼児語においても[s]音または「サ」音は、それぞれ、[∫]音または「シャ」音に訛(なま)って発音されることが多い(この事実は裁判所においても顕著であると信ぜられる)。更に、同一の漢字が一方では「サ」と発音され、他方では「シャ」と発音される事例も多い。例えば、「叉」、「沙」、「砂」、「娑」、「紗」などである(全掲参考資料Ⅱ第一九八七頁「サ」の音訓の部分および同第一九九六頁「シャ」の音訓の部分参照)。
(四の二) 右に述べた日本語において、「サ」の音と「シャ」の音が類似した音であることが経験則に属することであることは、次の事実に照らしても明らかである。
すなわち、次に掲げる審決例においては、いずれも、実質上「サ」音と「シャ」音の相違においてのみ互いに異なる二つの商標が、称呼上、互いに類似するものとされている。
(1)「SAVONET」及び「サボネット」と「シャボネット」
-昭和四一年審判第三四八四号(参考資料Ⅲ)
(2)「シャンポン」と「サンポン」
-昭和四六年審判第九〇九五号(参考資料Ⅳ)
(3)「博多きんしゃい」と「きんさい」
-昭和四九年審判第五五二五号(参考資料Ⅴ)
(4)「サンパール」及び「Sunpearl」と「シャンパール」
-昭和五四年審判第六七二六号(参考資料Ⅵ)
(5)「サロック」と「シャロック」
-昭和五六年審判第一五七二四号(参考資料Ⅶ)
(五) 以上に述べた処から明らかなように、日本語として「サ」音と「シャ」音が互いに類似音であることは経験則といい得るものである処、これに反する認定をした原判決及び原審決は、経験則に反するものである。
(六) 本件商標の称呼「ロンサン」と引用商標A、Bの称呼「ロンシャン」との比較において、両者には第三音の「サ」音と「シャ」音においてのみ差異が認められる処、前述した如く、「サ」音と「シャ」音は日本語においては互いに類似した語であり、したがって、両商標のそれぞれの称呼全体に及ぼす影響は少なく、両商標は、全体の語感および語調において酷似しているといわなければならない。仮に両者が正確にカタカナ表音通り区別して発音称呼されたとしても、せいぜい一方が他方の訛(なまり)またはその逆と理解されるにとどまり、両者の同一性認識が否定されあるいは損なわれることはない。したがって、両商標は称呼において互いに類似するものである。
(七) 以上の如く、本件商標と引用A、B商標は、称呼において類似するに拘わらず之に反する判断をした原判決は、経験則に反する認定に基づくものであり、かつ、商標法第四条第一項第一一号の規定に反するものであるから、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違背がある。
上告理由第二点
原判決は、上告人の原審における重要な主張事項に関し判断を遺脱した違法がある。
(一) 原審において上告人は、「サ」音と「シャ」音が互いに類似した音であることが経験則であることを明らかにするため、五つの審決例を引用し(平成元年五月一六日付原告準備書面(第一回)第八頁第三行ないし第一一行)、かつ、同審決公報を証拠として提出する証拠の申出を行った(平成元年五月一六日付原告証拠の説明書甲第八号証ないし甲第一二号証)。
(二) しかしながら、原判決においては、右上告人の主張に対して判断を遺脱している。
(三) そして、右上告人の主張は、上告理由第一点において述べた通り、経験則に関するもので、かつ、判決に影響を及ぼすべき重要な事項に関するものであり、右判断の遺脱は、判決に理由を附しなかったことに帰すものである。
上告理由第三点
原判決には、判例違反および判断遺脱の違法がある。
(一) 昭和五九年九月二六日判決言渡東京高等裁判所昭和五九年(行ケ)第一二八号審決取消請求事件判決においては、「ORION」及び「オリオン」の文字からなる商標と「ORINON」及び「オリノン」の文字からなる商標が互いに称呼上類似すると判断している。これは、一般に、カタカナ表示した場合に、いずれも四音からなり、最初の二音と末尾の「ン」の音が共通であって、第三音のみが相違している称呼をもつ二つの商標の称呼上の類否について普遍的に適用性のある判例であるということができる。
(二) 本件の場合においても、本件商標も引用A、B商標も、いずれもカタカナ表示した場合に四音からなり、最初の二音よ末尾の「ン」音が共通していて、第三音のみが相違しているものであって、前期判例の普遍的妥当性がそのまま適用され得る事案である。
(三) そればかりか、上告理由第一点で述べたように、両商標の第三音の「サ」と「シャ」は、右判例における「オ」と「ノ」の音よりも遥かに互いに類似した音であり、右判例以上に両者の類似性の大きいものである。
(四) 更に、右判例における、「オリオン」は星座を意味する語であるのに対し、「オリノン」は造語であるとしても、両者は称呼上聴き違えることも少なくないとの判断も、パリ郊外の競馬場の名前として知られる「ロンシャン」と特定の観念を生じない「ロンサン」(なお被上告人は原審において「ロンサン」は「論纂」または「論賛」の観念を生ずると主張しているが、このような観念は商標として不適切不自然であってその主張は非常識である)との類否判断が問題となっている本件にそのままあてはまる処である。
(五) 然るに、右判例とは全く別異の観点に立って、本件商標と引用A、B商標を称呼上非類似と判断した原判決および原審決は判例違反の違法があり、その違法は、判決に影響を及ぼすべきものである。
(六) なお、右判決については、上告人は、原審において之を引用した主張をした(平成元年五月一六日付原告準備書面(第一回)第七頁第一一行ないし八頁二行)。しかしながら、原判決においては、右原告の主張について判断を遺脱した違法がある。
以上
(添付書類省略)